社会の出来事 | 秋山孝年譜 |
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1973年(昭和48)
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1973年(昭和48)・21歳
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1974年(昭和49)
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●1974年(昭和49)・22歳 |
1975年(昭和50)
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●1975年(昭和50)・23歳
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1976年(昭和51)
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●1976年(昭和51)・24歳
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1977年(昭和52)
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●1977年(昭和52)・25歳
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1978年(昭和53)
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●1978年(昭和53)・26歳
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1979年(昭和54)
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●1979年(昭和54)・27歳
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1980年(昭和55)
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●1980年(昭和55)・28歳
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1981年(昭和56)
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●1981年(昭和56)・29歳
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いつも名作を見ながら光と影、質感、それにリアリスムとは何かを研究した。「そこにただあるだけで美しいという気持ちが沸き起こるのは何故だろうか」という疑問があった。ひたすら表現技術について安井曾太郎のデッサンやワイエス、シャルダンから受ける静けさや哲学性について想いを馳せた。
グラフィックデザインとイラストレーションの関係は、絵画表現を使い言葉にしづらいメッセージと美を視覚伝達すること。だからその表現技術をものにしなければならないと考えた。卒業制作の軽業師シリーズはロープと軽業師の不安定なバランスを風刺的表現で孤独な空間を描こうとした。わずかなエレメントと色彩だからこそ考え切ることができたような気がする。しかもあくまでも学生の域を出ない思い込みの強さがあるので気恥ずかしいものがあった。グラフィックデザインとイラストレーションのもっている乗り越えられない軽快感のある表現に憧れがあったのだが、どうすることもできなかった。その後、それを克服するために大学院があったのかもしれない。
やっと表現のフットワークさを見つけ、ビビットな色彩を自由に扱えるようになった。しかもマチエールからの脱出もはかりフラットな色面の美しさを使えるようになった。まるできれいな色紙を貼るような色彩の独立性を獲得した。さらに色のトーンから出来上がる輪郭線から、ラクガキのような一本の線にみる原始絵画表現の普遍的な力強さも、ものにできた。それによってこれから表現者としてのスタートが切れた。そして、社会に対して自分が伝えなければならない根本的なメッセージは、何なのかを思索した。しかし、疑問は募るばかりだった。