社会の出来事 |
秋山孝年譜 |
1962年(昭和37)
- キューバ危機
- ソビエト、世界初の有人宇宙船打上げ
- ビートルズレコードデビュー
- 東京スモッグ深刻化
- 東京都の人口が1000万人を突破
- あんぱん15円、牛乳16円、銭湯19円、理髪250円
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1962年(昭和37)・10歳 – 小学4年
- 「新潟県小学校図画展覧会」佳作
主催 : 新潟相互銀行
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1963年(昭和38)
- 米、英、ソ部分的核実験停止条約調印
- ケネディー大統領暗殺
- 38年豪雪(新潟)
- 力道山刺殺事件キューバ革命(1953-59)
- テレビアニメ第1作「鉄腕アトム」
- 「太陽」創刊(平凡社刊)
- コンピューターグラフィック元年
(スケッチパッドシステムが生まれる)
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●1963年(昭和38)・11歳 – 小学5年
- 「夏休み学習帳表紙絵コンクール」入選
主催:新潟県学習帳研究会
- 「わたしのおかあさん図画募集」佳作
主催:森永母をたたえる会、日本ユネスコ協会連盟
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1964年(昭和39)
- 東海道新幹線
- 第18回オリンピック東京大会
- 新潟大地震
- NHK「ひょっこりひょうたん島」
- 長岡現代美術館開館(長岡市)
- 鉄腕アトムテレビキャラ初の商品化
- 東京イラストレーターズクラブ結成。早川良雄、和田誠、宇野亜喜良、横尾忠則ら
- ICOGRADA第1回総会と会議(チューリッヒ)テーマ「商業美術家それともグラフィックデザイナー」
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●1964年(昭和39)・12歳 – 小学6年
- 「長岡自動車学校7周年記念図画コンクール」奨励賞
(2作品とも)主催:長岡自動車学校
- 「中越地区学童展」入賞 主催:新潟県中越美術研究会
- 「電波の日記念図画コンクール」1等 主催:信越電波管理局
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1965年(昭和40)
- 米、北ベトナム爆撃開始
- 朝永振一郎、ノーベル物理学賞受賞
- 新潟水俣病発生
- 大学生が100万人突破、受験戦争激化
- エレキギター流行
- ペルソナ展(松屋)。福田繁雄、永井一正、田中一光、和田誠、宇野亜喜良、横尾忠則、ポール・デイヴィス、他
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●1965年(昭和40)・13歳 – 中学1年
- 長岡市立上組小学校を卒業する(3月)
- 長岡市立宮内中学校に入学する(4月)
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1966年(昭和41)
- 中国で文化大革命起こる
- 全日空羽田沖で墜落
- 大学紛争盛ん
- ビートルズ、武道館でコンサート
- 第1回ワルシャワ国際ポスタービエンナーレ開催
- 第1回東京イラストレーターズクラブ賞。宇野亜喜良「絵本『あのこ』」
- 東京イラストレーターズクラブ編「年鑑イラストレーション」(講談社刊)創刊
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●1966年 (昭和41)・14歳 – 中学2年 |
1967年(昭和42)
- 美濃部亮吉、東京知事に当選
- 佐藤首相、東南アジア訪問。抗議デモで京大生死亡
- ヒッピーやフーテン族の出現により、グループサウンズ、ミニスカート、デザインにもヒッピーカラーが流行
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●1967年(昭和42)・15歳 – 中学3年 |
1968年(昭和43)
- 文化庁発足
- 川端康成、ノーベル文学賞受賞
- 3億円強奪事件
- チェコ事件(プラハの春終わる)
- キング牧師暗殺
- 東大・日大紛争
- 大量消費時代、イザナギ景気、昭和元禄
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●1968年(昭和43)・16歳 – 高校1年
- 長岡市立宮内中学校を卒業する(3月)
- 新潟県立長岡商業高等学校に入学する(4月)
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1969年(昭和44)
- 中国・劉少奇死去
- 東大安田講堂を学生が占拠し、機動隊と激突。東大入試中止
- 東名高速道路全線開通
- 米のアポロ11号月面着陸
- エコノミックアニマル、三無主義、断絶の時代
- 学園紛争続く
- ウッドストックロックフェスティバル (公民権運動、ベトナム反戦、環境保護、男女不平等是正)
- 日宣美公募審査、日宣美粉砕共闘により阻止
- 東京イラストレーターズクラブ第1回展開催
- デザイナー集団「サイレンサー」結成
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●1969年(昭和44)・17歳 – 高校2年
- 「第9回新潟県高等学校商業美術展」
奨励賞(商業ポスター部) 新潟日報社
- 「第9回新潟県高等学校商業美術展」
奨励賞(商業ポスター部) 新潟広告協会
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1970年(昭和45)
- 日本万国博覧会開催(大阪)
- 三島由紀夫と盾の会会員、自衛隊員にクーデターを呼びかけ、割腹自殺
- 日航よど号事件
- 日米安保条約調印
- 日宣美解散式全国5会場で同時開催
- ベン・シャーン展(東京国立近代美術館)
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●1970年(昭和45)・18歳 – 高校3年 |
1971年(昭和46)
- 中国・林彪事件
- 環境庁発足
- 円、変動相場制へ移行
- 第2次ベビーブーム
- 伊坂芳太郎「イラスト展」(パルコ)
- 写真家白川義員がイラストレーター、マッド・アマノを著作権侵害で告訴、論議を呼ぶ
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●1971年(昭和46)・19歳
- 新潟県立長岡商業高等学校を卒業する(3月)
- 高澤学院すいどーばた美術学院に入学(4月)
- 板橋区蓮根に転居
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1972年(昭和47)
- 沖縄返還、沖縄県発足
- アメリカ・ニクソン大統領が訪中
- 田中内閣発足、田中角栄首相就任(列島改造論)
- 田中角栄首相中国訪問、国交正常
- 連合赤軍による浅間山荘事件
- 横井庄一元軍曹、グアムから帰国
- 札幌冬季オリンピック開催
- 横尾忠則個展(ニューヨーク近代美術館)
- プッシュピンスタジオ展(渋谷・東急)
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●1972年(昭和47)・20歳
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小学生3、4年生
マーブルチョコレートの鉄腕アトムおまけシールをコレクションし下敷き裏表にびっしりと貼っていた。秋山孝コレクション(1961?63頃)
小学6年
中学3年(1967)
ぼくが中学生のころのことです。ビートルズが来日して全国の若者が熱中している時代で、ご他聞にもれず、兄・幸夫の部屋に入るとビートルズのポスターが貼ってあるわけですが、そのデザインが何とも格好良いのです。暗い空間にビートルズの4つの顔が浮かび上がって、それも、4人が一本のマフラーを首に巻いているのです。それを見たときに、すばらしいなと思いました。どこに感動したのかというと、「友情」なんですね。4人が同じ1本のマフラーをしている姿から伝わる、温かさに強くひかれたというわけです。それがきっかけで、兄・幸夫の影響もあり、ぼくは、ポスターを作るデザイナーをめざそうと思うようになったのです。
高校時代・ポスターデザイン
高校生時代は、商業美術部に入り、ポスターを制作したりしました。ポスターは軽快でフットワークがよく、現代的なアート表現に思えた。
高校時代・風景スケッチ
風景画などはスーラの点描技法を実験したり、スパッタリングでグラデーションをつかい、イラストレーションを描いた。またターナーの新製品「αカラー」を使い、ポスターを制作した。
高校時代・イラストレーション
高校1年生のときに、美大に進学したい、と強く思うようになっていました。そこで、長岡の大きな本屋に出かけてはグラフィックデザインの専門誌などを買ってきたり、当時、グラフィックデザインの世界で巨匠といわれていた人の本をこづかいで買ったりしたものです。毎日のように有名なデザイナーの作品が出ている専門書を眺めているので、その人たちの名前は全部頭に記憶するわけです。作品が教科書代わりで、その作品をまねしたりして、デザインを独学していました。ませた高校生だったのでしょうね、ぼくの周りには話が通じる友だちは一人もいませんでした。
高校を卒業後、まず、めざしたのは東京芸術大学、多摩美術大学、武蔵野美術大学でした。そして、すいどーばた美術学院(予備校)で受験勉強して多摩美術大学に合格しました。当時、東京の私立の美大は多摩美術大学と武蔵野美術大学が、双へきで、それぞれ多摩美、武蔵美とよばれていました。武蔵美は雰囲気の良い学校だと感じていて憧れていました。多摩美の方は、ちょっと軟派な感じで、おしゃれな感じもありました。結局、ぼくは多摩美でグラフィックデザインのコースに入学しました。当時の社会では、美大にいくと不良だという風潮がありました。どうして早稲田大学や慶応大学に行かないのという感じで、美大に通う学生はドロップアウトしている人っていうイメージで見られていました。
予備校時代の石膏デッサン(木炭)ヘルメス、シーザー、モリエール
立体造形(プラ板)
予備校時代
すいどーばた美術学院の屋上
秋山、市川、木曽、宮崎
ぼくたち4人組(秋山、市川、木曽、宮崎)は予備校で受験勉強後、多摩美(グラフィックデザイン)に入学した。
立体造形エレベーション(油土)