第5章:ポスター



人間が持っているもう一つの言葉

荒井:仕事と共にポスターやイラストレーションの表現研究に取り組んできたと。 表現研究のために行った活動についてもう少し詳しく教えて頂けますか。

秋山:自分がやっている仕事に対して、誰しもが大きな疑問を持つことが一般的だと思います。 なぜならば仕事を一生懸命にやればやるほど自分のやっていることの根本、あるいは本質を知りたいと思うようになるからです。 ぼくの場合は、まず「イラストレーションとは何か?」という疑問から発し、「ポスターとは何か?」「キャラクターとは何か?」「デザインとは何か?」「造形とは何か?」「視覚情報とは何か?」などなど疑問はふくれあがるばかりでした。 幸いにもぼくは長く教職についていたため、これらの本質を明快にさせたいと考え行動に移すことができました。


最初にやった研究は、先ほどお話した1998年に始めたイラストレーションスタデーズです。 今までのイラストレーションの本を読むと「イラストレーションとは何か?」という規定は書かれていましたが、すでに過去のもので現在に合うものではありません。 そこで新たな規定を作るために、二十世紀の証言として世界の名だたる表現者に「イラストレーションとは何か?」という取材を行いました。世界各国で優れたイラストレーションを使ったポスターをデザインした著名な表現者に限って行ったインタビューです。そこで得た回答は今までイラストレーションを規定してきた言葉よりも、ずっと本質的で感動の連続でした。

例えばフィンランドのポスターの父、タパニ・アルトマ(1934-2009)は「イラストレーションとは何か?」という質問に対し「イラストレーションは思想の小川のようなものだ。それはやがて海になる。」と答えました。それはスケッチをしながら手で考えてアイデアを作り出す源泉を例え話とし、時代や社会を動かす根本的な図像を表すことを詩的に語っているように思えました。

タパニ・アルトマ/Takashi Akiyama Homepage Tokyo


アメリカのポスター制作者のスターであるプッシュピンスタジオの設立者のひとり、シーモア・クワスト(1931-)は、その質問に対して「アルバート・アインシュタインは『芸術は、もっともシンプルな方法で深い思考を表現したものだ』と言った。 これもまたイラストレーションに言えることである。」「何かを考えるプロセスはミステリアスなもの。 これが魅力のエッセンスだ。」「考える、見る、そして全てのことを忘れる努力をする。見る人たちに対して嘘の無い表現者であるべきだ。」と語っています。

シーモア・クワスト /Takashi Akiyama Homepage Tokyo


セネガルのダカール生まれで、パリで過ごしアメリカ国籍を取得したフリップ・ワイズベッカー(1942-)は質問に対して「私にとってイラストレーションとは、ある抽象的概念の視覚的な解釈だ。 しかし、さらに感覚的に訴えるために、イラストレーション自身が屹立しているべきだ。」とイラストレーションの本質を突いた回答をしてくれました。

フィリップ・ワイズベッカーG8個展/Takashi Akiyama Photo diary/2009


ぼくは他にも多くの表現者にインタビューをしてきましたが、考えさせられる素晴らしい答えばかりでした。

荒井:この流れで思い切って聞いてみたいのですが、秋山さんにとってイラストレーションとは何ですか?

秋山:ぼくはこう考えるんです。

「人間の持っているもう一つの言葉」

これが「イラストレーションとは何か?」へのぼくの答えです。 言葉だけで人に自分の考えを伝えるには、たくさんの文字の組み立てが必要です。そうしなければ正しく伝えることは難しい。 しかし、イラストレーションはたった一枚の紙で端的に伝える力を持っています。そして、それを強く証明しているのがポスターです。 ポスターは一枚の大きな紙の中に図像(イラストレーション)と短いフレーズ(言葉)という、たった2つの関係で成り立っています。 言葉と図像は一対の響き合う美しい関係を持ち、お互いに補完し合いながら両者の持っている「伝える能力」を刺激し合い、美的な関係を作りあげます。 まさに人間が持っているもう一つの言葉を体現させてくれるメディアだと思います。

そしてポスターの「声なき声(もう一つの言葉)」をより強くしているものが紙のサイズです。 ポスターの紙はB比率やA比率の白銀比の美しい比率に則ったサイズに限定されています。そこにぼくは大きな魅力を感じています。 なぜかと言うと、表現にとって限定された枠組みがあることは、ぼくにはとても重要なんです。なぜならば、その枠組みがはずしてはならない絶対性を持っているからです。その絶対的な条件からポスターの役割を固持し、規定されたテーマから外すことがないもの、それこそがポスターなんです。

例えば俳句。 五・七・五の限られた文字数で、こんなにも豊かな心の感受性を表現できるのは、この五・七・五の持っている限定された枠組みが、考え、想像させる力になっているからです。それは現在でも通用する、長く時が経ても色あせない魅力的な枠組みに思えるのです。

例をあげれば、松尾芭蕉(1644-1694)の「古池や 蛙 とびこむ 水の音」(季語:蛙(春))。 自然と生き物、そして静寂からくる自然感が心に与える静かな感動を私たちは何百年も読み取っているのです。

与謝蕪村が描いた芭蕉像/Wikipedia


また、小林一茶(1763-1828)の「これがまあ 終(つい)のすみかか 雪五尺」(季語:雪(冬))。 五尺といえば1メートル50センチ、歩行するのも困難な雪の多さ。 雪の降る静けさと自分の終焉の人生が折り重なって、心に響き渡る自然感を見事に表現しています。

小林一茶の肖像(村松春甫画)/Wikipedia


ポスターも同じく、イラストレーションから「声なき声」を聞き静かで音の無い画面から心の中に響き渡る音楽、話しかける声、または自分の忘れ去った感性の声が聞こえてくるような錯覚に捕われる感覚を呼び起こします。それこそが人々の心を浄化させる能力を持つポスターの力だと考えています。

しかし、ほとんどのポスターは情報が多すぎて人々の心を捕えることができず、イベントが終わればゴミと化し消却される運命にあります。それもまたポスターが持っている儚さかもしれません。

ポスターは一枚の紙であって、彫刻のような激しい存在感があるわけでもなく、工芸のように人間の手技で磨き込んだような美しさがあるわけでもなく、さらに油絵のようなマチエールの響き合いの美しさが全面にでてくるものではありません。ポスターの薄っぺらな質感のなかにあるのは、色で区切られた形と色自体の持っている意味との関係性から生まれる儚さです。儚く美しい薄っぺらな紙のなかで奏でられる「形からでてくる意味」と「色の持っている意味」との響き合い。ギリギリの関係だからこそ明快なメッセージがそこに表れでてくるのです。

「形からでてくる意味」は何かというと、それは黒や色彩で出来たシルエットから発せられる言葉。「色の持っている意味」は何かというと、色立体を見ればわかるように明度と彩度の構造。例えば寒暖対比、明度対比、色相対比や色のトーン別のグループ、ビビットトーン、ブライトトーン、ライトトーン、グレッシュトーン、ダルトーン、ダークトーンなどの、もともと色が持っている意味。それらの使い方によってポスターは千差万別なメッセージを持つものとなるのです。

さらに限られた色と形に文字が加わり、それらの総合性が紡ぎだす織り込まれた心の襞(ひだ)。つまりそのメッセージを操る表現者の思想や哲学までもが薄っぺらな一枚の紙から見えてくるのです。


ポスターは情報消耗品

荒井:イラストレーションとは「人間が持っているもうひとつの言葉」、つまりメッセージそのものであると。 そしてそのメッセージを限られたフォーマットの中で、明快に複雑に表現できるメディアがポスターであるということですね。 そして後半の話を聞いていて、非常に日本的な考え方である「もののあわれ」に似たような印象を受けたのですが、「ポスターが持っている儚さ」について、もう少し詳しく教えて頂けますか?

秋山:1つ目はみんなも知っている通り、ポスターの紙の上にのっているインクの量はほんのわずかです。 本当におつゆのようなサラサラとしたインクで、油絵の具のようにメデュウムとたっぷりの顔料を用いてがっちり描いているわけではありません。銅版画やシルクスクリーン版画よりもわずかなインクでポスターは刷られています。その結果、紫外線による色の退色は甚だしいものがあります。

2つ目は、先にも述べたようにポスターは消耗品です。皆さんが新聞やチラシをゴミとして出すのと同じように、ポスターは廃棄物、情報消耗品なのです。

3つ目は、ポスターの素材は大きな一枚の紙と弱く、保管、保存が難しい。 簡単に退色したり破れたり保存場所が限られます。さらにポスター美術館はほとんど日本にはなく、個人コレクターが頑張ってポスターを守っているのが現状です。

4つ目は、情報化社会になりIT産業が発展しポスターまでもが電子化され、さっと表れて、さっと消えるものになりました。 費用対効果から見てもマルチメディアには敵わない存在になっています。それはポスターをじっくり見て考えてくれる人が少なくなったことにも起因していると思います。マルテチメディアは、音楽、時間、動きなど、心の中に入り込みやすい仕組みを持っているので、ポスターは駆逐されてしまいそうです。そう考えると、ポスターは限りなく儚さに満ちあふれていると思います。

複製メディア

荒井:そう言われるとポスターが非常に儚いものに見えてきました。 そういえば以前に、故郷の長岡にポスター美術館を作られたとおっしゃられていましたが、それはまさしくポスターが持つ儚さに対抗するためだったのでしょうか?

秋山:まさにそうですね。 ポスターは想像以上に保存が難しい。 そして従来の油絵や日本画や彫刻とは違い、美術としての評価価値が低いと思われています。 それはポスターが印刷物だからです。ポスターは商業美術として低く見られているのです。

しかし、ぼくはそういう一般の見方には納得がいきません。そのためにポスター美術館と銘打ってポスターに焦点をあてた「秋山孝ポスター美術館長岡」を作りました。世の中には多様な美術があるのに、その魅力を理解できない人たちが多い。幅広い美術の存在をポスター美術館を通して知らせていきたいと考えています。そしてポスターの魅力に取り憑かれた若い有能な人を育てたいとも思っています。そうしないと人間が生み出した素晴らしいポスター芸術が、誰にも理解されずに消え去ってしまう恐れがあるからです。それは啓蒙思想、活動のひとつかもしれません。


それぐらい、ぼくはポスターの持っている芸術性を評価しています。なぜならば非常にレベルの高い表現内容を持つポスターが実在しているからです。

日本の芸術愛好家達は、遠い国の一点豪華主義(オリジナル)の妄想に取り憑かれていて、日本で作られた美術(複製美術)についてあまり興味を持っていない現実があります。「私は世界でもっとも有名な、一点しかない価値のあるものを見たい」という考えに支配されているのかもしれません。

その結果、複製美術はあまり評価されず、日本が西洋美術に大きく影響を与えた浮世絵なども複製だから気にくわなくて、一点しかない高価な絵を眺めることによって喜びを得ることの方が多い。作品そのものの素晴らしさではなく、本物を見たという優越感、他者との差別意識によって、価値が成り立っているではないかと疑ってしまうことがあります。「ぼくは本物を見たけど、あなたは見ていない」高級品を見たか見ていないかという錯覚した知的快楽が日本では多いのではないでしょうか。

浮世絵が西洋美術に大きく影響を与えたのは複製だったからです。新聞に挟まれているチラシのように大量に印刷されたものだったからこそです。当時のヨーロッパの版画は銅版を中心としたモノクロームの無彩色のトーンで作られているものが一般的でした。木版に関しても小口木版を使ったものばかりで、日本の浮世絵のように板目木版を使いやわらかみがあり、カラフルな色彩が丁寧に施されているものではなかった。だから浮世絵を見て「なんて新しい考えを持った絵なんだろう」と印象派の画家達に感動を与えたのです。

左:広重, 右:ゴッホの模写/Wikipedia


では、その「新しい考え」は具体的に何だったかと言うと、ひとつ目は構図、ふたつ目は色彩、みっつ目は線の際立った完成度の高い表現です。 もともと日本の陶器の輸出の際、破損しないようにパッキングに利用した紙が浮世絵でした。 くしゃくしゃになった浮世絵のしわを伸ばしてみた時の画家達の感動は計り知れないものがあったと思います。 構図の大胆さ、目の前に大きな橋の欄干が横切っていたり、描かなくてよいところを大胆に省略したり。 また、複製品なのに、濁りのない明るい色彩を用いていて、繊細な線による描写がされていたことなど、当時のヨーロッパにはないものを浮世絵は持っていたのです。

つまり複製で大量部数刷られているからこそ、ヨーロッパの人達の目に触れる機会を獲得できた。 これが一点豪華主義のものであったら、この新鮮な日本の美の概念はヨーロッパの画家達に影響を与えなかったはずです。 複製であるからこそなし得えた美の力です。

ゴッホ画 タンギー爺さん/wikipedia



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