図書館と美術館
荒井:大学院の修了作品で大きな方向性を見いだし、それからはポスターと本に力を入れてきたと。ポスターの魅力、本の魅力、またはそれらの魅力を引き出すものについて教えて頂けますか?
秋山:ぼくは紙という存在の魅力を存分に発揮できるのは「一枚の紙」と「束になる紙」だと考えました。一枚の紙は遠くから見える大きなポスター。紙の束はぼくたちの脳の中を保存する本です。そしてそれらの魅力を最大化するが美の森、知の森です。
美の森は美術館を指します。
美術館は作品を展示・保管する事が大切です。
後世の人が展示された作品を見て心が浄化されたり、人間の本質を見つけ出したり、生きるための大切な指針となる「美」を見つけだすことができる場所です。
ポスターは大きな一枚の紙で、遠くから見れば見るほど良さが理解できます。
そういう意味でポスターの展示場所は街中のポスター塔だけでなく、大きな空間と壁を持つ美の森である美術館が必要になるのです。
知の森は図書館を指します。
本の魅力のひとつは、ぼくたちの脳の中を保存する事です。
その偉業は一枚の紙にノンブル(ページ番号)をつける事で実現しました。
ロジカルに自分の考えを人に伝えるためには何百ページも必要になります。
一枚の紙の連続性を束にするのにノンブルは絶対的な基準であり必要不可欠なものとなります。
ノンブルによって本はひとりの人間が言葉で説明するよりも、もっと正確に記録ができる媒体となりました。
後世の人は、先人が書いた本の何ページの何行目にこういう事が記してあるという事実が非常に重要で、自分の研究の出典として活用することが可能になりました。
その連続性を持った時間が、知識の山となり体系化され、我々に引き継がれているのです。
そして、その連続した時間をわかりやすく体験させてくれるのが図書館です。
膨大な数の本をジャンルや年代ごとにきちんと整理することにより、私たちにわかりやすく先人の知恵を与えてくれます。
荒井:なるほど。ポスターの魅力を最大化するための美の森「美術館」、私たちの知識を内包する知の森「図書館」という訳ですね。
秋山:例えばですが、ただ絵が好きだからといって、無闇に書き殴った絵を何枚作っても、整理整頓し、その人の考えが見えてこなければ誰にも伝える事はできません。
そう考えると、作品の連続性を保管するメディアの持っている力は非常に強い事がわかると思います。
ぼくはこのフィールドをとても大切に思っているので、ポスターを主とした美術館「秋山孝ポスター美術館長岡」を故郷である長岡に開設しました。
さらに現在はウェブという効率の良い新しいメディアが生まれたので、それを使いきり、自分のものにしたいと考え始めています。
それは世界に向け、受発信する事が出来る新しい「知と美の森」です。
荒井:テキスト、イラストを世界中で送受信できる知と美の森「ウェブ」への挑戦。
私はインターネット業界で働いている人間なので抵抗はないのですが、複製が安易にできるインターネット上に秋山さんの作品を掲載する事に対して抵抗はないのですか?
秋山:ぼくは、まったく抵抗感はありません。
それはイラストレーションが絵画とは異なり、メディアの中で軽やかに活躍する美術だと考えているからです。
新たなメディアが生まれたら、そのメディアに対応し質の高いビジュアルメッセージを送るのが使命だと考えています。
ですから、ぼくは自分の作品を掲載したサイトを幾つか持っています。
絵画表現の真実感
荒井:なるほど。
メディアの中で活躍するイラストレーションであれば、新しいメディアにも柔軟に対応していけるという訳ですね。
メディアへの対応と変化について、さらに詳しくお聞きしたいのですが、今後、イラストレーションはどのように変化していくと考えていますか?
秋山:視覚芸術(イラストレーション)は、ますます人々の理解度を高めるために、より理解しやすい表現が発展するでしょう。
例えば、3D化したり、動きが入ったり、音楽が含まれたり、感動しやすいように導入方法が自然化していきます。
その結果どうなるかと言うと、自分で深く観察し考えたあとに感動するという難しいプロセスを排除し、人が作った感動を自分自身が作った感動のように感じる映像などが、はびこるようになるでしょう。
つまり簡単に仕掛けられた感動で自分を慰め納得してしまう危機を感じます。
ぼくは自分自身で美や感動を見つけ出す真実感がとても大切だと思っているので、なおさら危機を感じています。
荒井:わかりやすい感動が増えていく。最近、映画など過去のリメイク作品が増えているように感じるのですが、その辺りも関係しているのかも知れませんね。そして美や感動に関連するキーワード「真実感」について、秋山さんの考えをもう少し話していただけますか?
秋山:人類の絵画表現は「真実=真実感」つまり、リアリティを追求してきました。先史時代の洞窟壁画を見ても、まさに迫真に迫るものがあります。描き手は真実感を伝えるため、ビジュアル表現を駆使し、自身の見たい物やその想いを伝え、時には感動に導いてきました。古代・中世・近代・現代と、人類は何万年もの時を経て、様々な表現を生み出し森羅万象を描いてきました。
リアリスム(写実表現)は絵画表現の基本であり、あらゆる表現はリアリスムの探求や変革の中からもたらされています。
リアリスムは「中世から近代ヨーロッパのリアリスム」と「東洋のリアリスム」、それに「近代から現代のリアリスム」の3つに大別する事ができます。
中世から近世のヨーロッパのリアリスムは、ゴシック、ルネッサンス、北方ルネッサンス、フランドル、バロックロココ、古典主義、ロマン主義の展開がありました。
それに対し東洋のリアリスムは、日本では大和絵、絵巻物、水墨画、花鳥画、土佐派・狩野派絵画、遊楽風俗画、南蛮屏風、桃山障壁画、住吉派、淋派、浮世絵、さらに西洋絵画の流れを汲む南画、洋画へと続きます。
近代から現代のリアリスムは、産業革命の影響のもとに様々なものが発達しました。
1851年にロンドンで最初に開催された万国博覧会は、世界各国が参加した画期的な人類の英知の交流の場となりました。
工業・科学技術だけでなく、美術・工芸作品も多く出品され、これをきっかけに様々な表現様式が矢継ぎ早に花開きました。
特にシュールレアリスムが代表的です。
さらにアメリカでは写真をもとにしたフォトリアリスムや、スーパーリアリスムが展開されました。
このように様々な個性的表現が生まれてきましたが、それは真実感を求めて人類が創意工夫し続けてきた歴史なのです。
そこで重要なのは感覚と科学的な視点である遠近法を離れ、新たなリアリスムが生まれてきたことです。
それはイタリアで生まれた未来派、それからキュビスム、さらに新しい抽象表現の発見。色と形のデフォルメ表現などが上げられます。
真実感を求める活動は現在まで終わりを見ていませんし、今後も続いていくのでしょう。
イラストレーションはメディアの中で活躍する絵画表現ですが、その活動領域の幅は計り知れないほど広範囲に広がっています。
そこでも絶えず真実感を求めて人間は活動を続けています。
だからこそ美術という領域は現代もなお継続し、我々の心に真実感の感動を与え続けているのでしょう。
これが僕の真実感に対する歴史観です。
また、哲学の分野から真実感を考えていくと。
構造主義と言われるレヴィ・ストロース(1908-2009)は、サルトル(1905-1980)の思想が西洋近代社会の人間像だけをモデルにした理論構築だと批判しました。
それまでの「歴史」は人間の手によって自由に創造されるものであり、人類は幾多の困難や矛盾を乗り越えつつ、進歩していくという歴史観に基づいていました。
そんな人間主体の歴史を疑いました。
レヴィ・ストロースは人類学者です。
未開社会(現代社会との接点がなく、独自の文化を形成している社会)を研究し、彼らに取って意味のある極めて合理的な社会があるという発表を次々行いました。
「未開」という言葉から連想されるような劣った暮らしをしているわけでは決してありませんでした。
資源とエネルギーを食い潰す「熱い社会」を、そのまま維持する事は困難になりつつあります。
一方「冷たい社会」は、エネルギーの消費が少ないために、何千年も生活が維持できます。
ここから現代人の考える進歩史観は人間を幸福にしないのではないか、という思想が誕生しました。
未開人が生き抜き、身に着けてきた知恵には、知的な逞しさを持つ汎用性が隠されているのです。
彼はサルトルの主著「弁証法的理性批判」を見事に批判しました。
未発達から発達への歴史的な意義を認めるのは、見当違いであると主張したのです。
未開人を「歴史的に遅れている人たち」と評価する誤りから抜け出せていないとサルトルを論破したのです。
というように真実はどこかに隠れていて、それを見つけだそうとする「真実感」が必要になるのです。
美術史から見た見方と、哲学から見た見方はお互いに補完し合うものです。
真実を探り出す純粋な活動が影響し合い、新たな表現が浮かび上がってくるのです。
ですから社会活動、学問、芸術などは一見関係ないように見えますが、実は非常に密接な関係があり、真実感を求めるには様々な分野の知識を持たなければいけないということがわかるでしょう。
「美」とは
荒井:美術史から見た真実感と哲学から見た真実感が影響し合う。
方法は違っても哲学と美術が求めているものは同じなのかもしれませんね。
真実感の話からさらに発展させたいのですが、人が美を求める根源的な考え方「美意識」について、秋山さんはどう考えていますか?
秋山:「美」とは人が事物を見て感動する喜びです。
また物理的なものでなくても、数学や科学や哲学のように理論を駆使して導きだした考えや答えには、計り知れない美しさが存在すると思います。
そして私たちは「生きる」ということに対しても美意識を持っています。
それは歴史に名を残してきた人々の行いを見ると良く理解できると思います。
ガンジー(1869-1948)の無抵抗主義などは、よく分かる例でしょう。
様々な美の形がありますが、人間が持っている美意識に訴えかけるには、真実感に裏打ちされたものでなければなりません。
そうでなければ人が感動することはないのです。
荒井:抽象的な話になってしまうかもしれませんが、美意識は生まれ持ったものなのか、後の教育で培われるものなのか、秋山さんはどちらだと考えていますか?
秋山:美意識に関連して、ぼくが長岡の街おこしの時に考えたことを図式化したものがあるので、それを見ながら話しましょう。
真ん中に美があります。
その一番遠い周辺に自然を表している空、山、大地、水という要素があり、これがぼくたちを取り巻く環境です。
特にこの自然は人々の心に深く刻み込まれ、自然の美しさや恵みなど、美の基本を形作るフレームとなります。
美しい水は、ぼくたちが生活するうえで重要な要素になります。
また、大地や空、山なども人間を包みこむ自然となります。
その風景は子どもの時に受けた原風景となりバランスの取れた美の概念を形作ります。
その次の輪が誇り、歴史と産業です。
誇りは人々に我慢強い精神性を与えます。
精神性は長い歴史の中で形作られるものですから学習が重要で、そこから導きだされた本質を理解し正しい道へと進むことが大切です。
そこに裏打ちされるのが仕事となる生活基盤の産業です。
産業は人間の活動に安定を作りだします。
さらに次の輪は知と創造。
これは教育に深く関わり、私たちの指針となる過去、現在、未来の羅針盤の役割を果たします。
そして最後に美です。
この力は急に活躍しませんが、生涯のなかでもっとも重要な判断の基準となり、美意識と呼ばれ人生で大きな決断をする時など、これに頼ることになります。
この図は街おこしを含め人々のバランスの取れた「生きる」ということを、理解しやすいようにまとめたものです。
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